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宿曜経と歴史

宿曜経とは

西洋文明が、太陽を中心に形成されてきたのに対して(陽暦文化)、古来東洋では宇宙を支配するおもな源泉は月であり、月の運行が人間と自然社会の法則を形成してきました(陰暦文化)。

宿曜経』も、陰暦文化が生み出した、東洋の科学と神秘主義を代表する人間の運命に関する法則です。

宿曜経』つまり、『文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経』は、今から約1230年前、仏事や、政治・経済問題に関する行事を開催し、あるいは、諸事活動を開始する日の吉凶、日常生活に関わる行為を行うべき日の良し悪し、および人物の判断などを記したものですが、なかでも人間の性格と職業、他の人々との関係を含む運命全般の判断の仕方についての叙述は、とくに詳細を極めています。

宿曜経』は、インド古来の「二十七宿」体系に基づく占星と、ギリシャ伝来の「七曜」(太陽、月と、火・水・木・金・土の五惑星)と、「十二宮」による占星術とを合わせ、「二十七宿」、「七曜」、「十二宮」との関わり、および人の誕生日の宿星(命宿)とそれらの「宿」、「曜」との関係で導き出す占法です。

これより導き出される人物像は二十七(二十七宿星)になります。

宿曜経の歴史

主な説によれば西暦714年、不空三蔵が仏典を求めてインド、セイロンに旅立ち、インドで『宿曜経』を発見して中国に持ち帰ったとされています。

日本においては、西暦804年に空海が遣唐使として唐に渡り、不空三蔵の高弟恵果の知遇を得て、日本人として初めて『宿曜経』に接し奥義を授けられた後、多くの密教教典と共に806年、日本に持ち帰りました。
その中に、人の性格(本質)や吉凶を読み取る占法があります。

『宿曜経』は当初、一部の高僧の間だけで仏事の秘法として使用され、出家得度の期日や、受戒伝法、密教の伝授の時には、その吉凶を決めて実行していたようです。

当時すでに、「陰陽道」と呼ばれる、陰陽五行説に基づく暦法と、易占が公家社会に広く用いられていましたから、『宿曜経』もまた彼らの間に急速に広がり、密教と共に定着していき、「陰陽道」に対する『宿曜道』が形成されました。

しかし、概して『宿曜経』は、宮中や一部仏僧間で、占星の教典として使用され、中世以後に一般化されることはありませんでした。

明治以降も、この傾向は続き、今日残っている『宿曜経』の研究書も限られています。

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